古典の原文倉庫 歌座  /  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11 12  13   平家物語 BOOK ベスト 54 

          
        
平家物語 
    
          縦書原文
        
 

                             


                

     巻第二


  

 

座主の流され  治承元年

 治承元年五月五日、天台座主明雲大僧正、公請を停止せらるる上、蔵人を御使ひにて、如意輪のご本尊を召し返いて、護持僧を改易せらる。すなはち使庁の使をつけて、今度神輿内裏へ振りふり奉る衆徒の張本を召されけり。
加賀国に座主の御坊領あり。国司師高これを停廃の間、その宿意によつて、大衆を語らひ訴訟をいたさる。すでに朝家の御大事に及ぶよし、西光法師父子が讒奏によつて、法皇おほきに逆鱗ありけり。「ことに重科に行はるべし」と聞こゆ。明雲は法皇の御気色悪しかりければ、院鑰を返し奉つて、座主を辞し申されけり。
 同じき十一日、鳥羽院の七の宮、覚快法親王、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院の大僧正行玄の御弟子なり。
 同じき十二日、先座主所職を停めらるる上、検非違使二人をつけて、井に蓋をし、火に水をかけて、水火の責めに及ぶ。これによつて、大衆なほ参洛すと聞こえしかば、京中また騒ぎあへり。
 同じき十八日、太政大臣以下の公卿十三人参代して、陣の座につき、先の座主罪科のこと議定あり。
八条中納言長方卿、その時はいまだ左大弁の宰相にて、末座に候はれけるが、申されけるは、「法家の勘状に任せて、死罪一等を減じて、遠流せらるべしとは見えて候へども、先座主明雲大僧正は顕密兼学して、浄行持律の上、大乗妙経を公家に授け奉り、菩薩浄戒を法皇に保たせ奉る御経の師、御戒の師。重科に行はれんこと、冥の照覧量りがたし。還俗遠流をなだめらるべきか」と、はばかるところもなう申されたりければ、当座の公卿、みな長方の議に同ずと申し合はれけれども、明雲は法皇の御憤り深ければ、なほ遠流に定めらる。
太政入道もこのこと申さんとて、院参せられたりけれども、法皇御風の気とて御前へも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪する習にて、度縁を召し返し、還俗せさせ奉り、大納言大輔藤井の松枝といふ俗名をこそつけられけれ。
 この明雲と申すは、村上天皇第七の皇子、具平親王より六代の御末、久我大納言顕通卿の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣も尊み給ひて、天王寺、六勝寺の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安部泰親が申しけるは、「さばかんの智者の、明雲と名乗り給ふこそ心得ね。上に日月の光をならべ、下に雲あり」とぞ難じける。
 仁安元年二月二十日の日、天台座主にならせ給ふ。
同じき三月十五日、御拝堂あり。中堂の宝蔵を開かれけるに、種々の重宝の中に、方一尺の箱あり。白い布にて包まれたり。一生不犯の座主、かの箱を開いて見給ふに、黄紙に書ける文一巻あり。伝教大師、未来の座主の名字を、かねて記し置かれたり。わが名のある所まで見て、その奥をば見ず。元のごとく巻き返して置かるるならひなり。さればこの僧正も、さこそはおはしけめ。かかる貴き人なれども、先世の宿業をば免れ給はず。あはれなりし事どもなり。
 同じき二十一日、配所伊豆国と定めらる。人々やうやうに申されけれども、西光法師父子が讒奏によつて、かやうには行はれけるなり。やがて今日都の内を追ひ出ださるべしとて、追立の官人、白河の御坊に行き向つて追ひ奉る。僧正泣く泣く御坊を出でつつ、粟田口の辺、一切経の別所へ入らせおはします。
山門には、「所詮、我等が敵、西光法師父子にすぎたる者なし」とて、彼等父子が名字を書いて、根本中堂におはします十二神将のうち、金毘羅大将の左の御足の下にふませ奉り、「十二神将、七千夜叉、時刻ををめぐらさず、西光法師父子が命を召し取り給へや」と、をめき叫んで呪詛しけるこそ、聞くも恐ろしけれ。
 同じき二十三日、一切経の別所より、配所へおもむき給ひけり。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、追立の欝使が先にけたてさせて、今日を限りに都を出でて、関の東へおもむかれけん心の中、推し量られてあはれなり。大津の打出の浜にもなりしかば、文殊楼の軒端のしろじろとして見えけるを、ふた目とも見給はず、袖を顔におしあてて涙にむせび給ひけり。
山門には宿老碩徳多しといへども、澄憲法印、その時はいまだ僧都にておはしけるが、あまりに名残を惜しみ奉り、粟津まで送り参せて、それより暇申して帰られけるに、僧正心ざしの切なることを感じて、年来孤心中に秘せられたりし一心三観の血脈相承を授けらる。この法は釈尊の附属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の竜樹菩薩より次第に相伝し来たれるを、今日の情に授けらる。
さすがに我が朝は粟散辺地の境、濁世末代とはいひながら、澄憲これを附属して、法衣の袂を押さへつつ、都へ帰りのぼられけん心の中こそ貴けれ。
 さるほどに山門には大衆おこつて詮議す。
「そもそも義真和尚よりこの方、天台座主はじまつて五十五代に至るまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつらことの心を案ずるに、延暦の頃ほひ、皇帝は帝都を立て、大師は当山によぢ上つて、四明の教法をこの所にひろめ給ひしよりこの方、五障の女人跡絶えて、三千の浄侶居をしめたり。峰には一乗読誦年旧りて、麓には七社の霊験日新たなり。かの月氏の霊山は、往生の東北、大聖の幽窟なり。この日域の叡岳も帝都の鬼門にそばだつて護国の霊地なり。代々の賢王智臣、この所に壇場を占む。末代ならんからに、いかでか当山に傷をば付くべき。こは心憂し」とて、をめき叫んで言ふほどこそありけれ、満山の大衆、残りとどまる者もなく、みな東坂本へ降り下る。

付 一行の沙汰 <治承元年>

 十禅師権現の御前にて、大衆また詮議す。
「そもそも我等粟津へ行き向かつて、貫首をば奪ひとどめ奉るべし。ただし追立の欝氏、領送使あんなれば、左右なう取り得奉らんことありがたし。山王大師の御力のほかはまた頼む事なし。まことに別の仔細なく、取り得奉るべくは、ここにてまづ我等にしるしをみせ給へ」とて、老僧ども肝胆をくだいて祈念しけり。
ここに無動寺本師乗円律師が童に、鶴丸とて生年十八歳になりけるが、心身を苦しめ、五体に汗を流いて、にはかに狂ひ出でたり。
「我十禅師権現乗り居させ給へり。末代といふとも、いかでか我が山の貫首をば、他国へは移さるべき。生生世世に心うし。さらんにとつては、我この麓に跡をとどめても何にかはせん」とて、左右の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、大衆これを怪しんで、「まことに十禅師権現の御託宣にておはしまさば、我等しるしを参らせん。少しも違へずもとの主に返し給べ」とて、老僧ども四五百人、てんでに持つたる数珠どもを、十禅師権現の大床かの上へぞ投げ上げたる。
かの物狂ひ走りまはり、拾ひ集め、少しもたがへず一々にもとの主にぞ配りける。大衆神明の霊験新たなる事の貴さに、みな掌を合はせて、随喜の感涙をぞもよほしける。
「その儀ならば、ゆき向かつて奪ひとどめ奉れや」といふほどこそありけれ、雲霞のごとくに発向す。
あるひは志賀唐崎の浜路に歩み続ける大衆もあり。あるひは山田矢ばせの湖上に船おし出だす衆徒もあり。
これを見てさしもきびしげなりつる追立ての欝使、領送使、散散にみな逃げ去りぬ。
 大衆国分寺へ参り向かふ。まづ座主おほきに騒いで、「『勅勘の者は月日の光にだに当たらず』とこそ承れ。いかに況んや、時刻をめぐらさず、急ぎ追つくださるべしと、院宣、宣旨のなりたるに、少しもやすらふべからず。衆徒とうとう帰り上り給ふべし」とて、端近くゐ出でて宣ひけるは、「三台槐門の家を出でて、四明幽渓の窓に入りしよりこの方、広く円宗の教法を学して、顕密両宗を学びき。ただ我が山の興隆をのみ思へり。また国家を祈り奉る事もおろそかならず。衆徒を育む心ざしも深かりき。両所三聖も定めて照覧し給ふらん。身にあやまつ事なし。無実の罪によつて、遠流の重科かうむれば、世をも人をも神をも仏をも、恨み奉る事なし。これまでとぶらひ来たり給ふ衆徒の芳志こそ、報じ尽くしがたけれ」とて、香染の御衣の袖しぼりもあへさせ給はねば、大衆もみな鎧の袖をぞ濡らしける。
すでに御輿さし寄せて、「とうとう召さるべう候へ」と申しければ、「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしが、今はかかる流人の身となつて、いかでかやんごとなき修学者、智恵深き大衆達にはかき捧げられては上るべき。たとひ上るべきなりとも、藁沓などいふ物しばり履いて、同じやうに歩み続いてこそ上らめ」とて、乗り給はず。
 ここに西塔の住侶、戒浄坊の阿闍梨祐慶といふ悪僧あり。丈七尺ばかりありけるが、黒皮縅の鎧の、大荒目に黄金まぜたるを、草摺長に着なし、甲をば脱いで、法師ばらに持たせつつ、白柄の薙刀杖につき、大衆の中をおし分けおし分け、先座主のおはしましける所につつと参り、大の眼を見いからかし、「その御心でこそ、かかる御目にも合はせ給ひ候へ。とうとう召さるべう候ふ」と申しければ、先座主恐ろしさに急ぎ乗り給ふ。大衆取り得奉る嬉しさに、いやしき法師ばらにはあらで、やんごとなき修学者どもがかき捧げ奉り、をめき叫んで上りけるに、人はかはれども、祐慶はかはらず、前輿かいて、輿の轅も薙刀の柄も砕けよと取るままに、さしもさがしき東坂、平地を行くがごとくなり。
 大講堂の庭に御輿かき据ゑて、大衆また詮議す。
「そもそも我等粟津に行き向かつて、貫首をば奪ひとどめ奉りぬ。ただし勅勘をかうむつて流罪せられ給ふ人を、取り留めて貫首に用ひ申さん事、いかがあるべかるらん」と詮議す。
戒浄坊の阿闍梨祐慶、また先のごとく進み出でて詮議しけるは、「それ当山は日本無双の霊地、鎮護国家の道場なり。山王の御威光盛んにして、仏法王法牛角なり。されば衆徒の意趣に至るまで並びなく、いやしき法師ばらまでも世もつて軽しめず。況んや智恵高貴にして、三千の貫首たり。徳行重うして一山の和尚たり。罪無くして罪をかうむる。これより山上洛中の憤り、興福、園城の嘲りにあらずや。この時顕密の主を失つて、数輩の学侶、蛍雪の勤め怠ること心憂かるべし。所詮、祐慶張本に称ぜられ、禁獄流罪にも及び、頭を刎ねられん事、今生の面目、冥途の思ひ出なるべし」とて、双眼より涙をはらはらと流しければ、大衆もみな「もつとももつとも」とぞ同じける。それよりしてぞ、祐慶はいかめ房とはいはれける。その弟子に恵慶律師をば、時の人、小いかめ房とぞ申しける。

一行阿闍梨 <治承元年>

 先座主をば東塔の南谷、妙光坊に入れ奉る。時の横災をば権化の人ものがれ給はざりけるにや。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の護持僧にてましましけるが、玄宗の后楊貴妃に名をたち給へり。昔も今も、大国も小国も、人の口のさがなさは、あとかたもなき事なりしかども、その疑ひによつて、果羅国へ流されさせ給ふ。
件の国へは三つの道あり。輪地道とて御幸道、幽地道とて雑人の通ふ道、暗穴道とて重科の者をつかはす道なり。されば、かの一行阿闍梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞつかはしける。
七日七夜が間、月日の光も水して行く所なり。冥冥として人もなく、行歩に前途迷ひ、森森として山深し。ただ澗谷に鳥の一声ばかりにて、苔の濡れ衣ほしあへず、無実の罪によつて遠流の重科かうむる事を、天道憐れみ給ひて、九曜のかたちを現じつつ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指を食ひきつて、左の袂に九曜のかたちを写されけり。和漢両朝に真言の本尊たる九曜の曼荼羅これなり。


西光が斬られ <治承元年>

 さるほどに山門の大衆、先座主取りとどむる由、法皇聞こし召して、いとど安からず思し召す所に、西光法師申しけるは、「山門の大衆、発向のみだりがはしき訴へつかまつること、今に始めずと申しながら、今度はもつてのほかに候ふ。これを御いましめ候はでは、世は世でも候ふまじ。よくよく御いましめ候ふべし」とぞ申しける。
ただ今我が身の滅びんずる事をもかへりみず、山王大師の神慮にもはばからず、かやうに申して宸襟を悩まし奉る。讒臣は国を乱るといへり。まことなるかな。叢蘭茂からんとすれども、秋風これを破り、王者明らかならんとすれば、讒臣これを闇うすとも、かやうの事をや申すべき。執事の別当成親卿以下、近習の人々に仰せて、山攻めらるべし、と聞こえしかば、山門の大衆、「さのみ王地にはらまれて、詔命を対捍せんも恐れなり」とて、内々院宣にしたがひ奉る衆徒もありなど聞こえしかば、先座主は妙光坊におはしけるが、大衆二心ありと聞き給ひて、「またいかなる目にか逢はんずらん」と宣ひけるが、されども流罪のさたはなかりけり。
 さるほどに、新大納言は山門の騒動によつて、私の宿意をばしばらく押さへられけり。そも内議支度は様々なりしかども、義勢ばかりで、この謀叛かなふべしとも見えざりければ、さしも頼まれたりつる多田蔵人行綱、この事無益なりと思ふ心ぞ付きにける。
弓袋の料にとて送られたりける布どもをば、直垂、帷子に裁ち縫ひ、家子、郎等どもに着せつつ、目うちしばだたいてゐたりけるが、つらつら平家の繁盛する有様を見るに、当時たやすう傾け難し。もしこのこと洩れぬるほどならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より洩れぬさきに返り忠して、命生かうど思ふ心ぞ付きにける。
 同じき五月二十九日の小夜更け方に、入道相国の西八条の亭に行いて、「行綱こそ申すべき事あつて、これまで参つて候へ」と、言ひ入れたりければ、入道、「常にも参らざる者の参じたるはなにごとぞ、あれ聞け」とて、主馬判官盛国を出だされたり。
「人伝てには申すまじき事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから中門の廊にぞ出でられたる。
「夜ははるかに更けぬらんに、ただ今なにごとぞ」と宣へば、「昼は人目のしげう候ふ間、夜にまぎれ参つて候ふ。このほど院中の人々の兵具を整へ、軍兵を召され候ふをば、何事とか聞こし召されて候ふ」と申しければ、入道、「いさとよ、それは法皇の山攻めらるべしとこそ聞け」と、いと事もなげにぞ宣ひける。
行綱近寄り小声になつて、「その儀では候はず。一向当家の御上とこそ承り候へ」。入道、「さてそれをば法皇も知ろしめされたるか」。「仔細にや及び候ふ。執事の別当成親卿の軍兵召され候ふも、院宣とてこそ催され候へ」。
俊寛がと申して、康頼がかう申して、西光がと振る舞うてなど、始めよりありのままにはさし過ぎて言ひ散らし、「暇申して」とて出でければ、その時入道大声をもつて侍ども呼びののしり給ふ事、聞くもおびたたし。
行綱はなまじひなる事申し出でて、証人にや引かれんずらんと恐ろしさに、人も追はぬに取り袴し、大野に火を放ちたる心地して、急ぎ門外へぞ逃げ出でける。
 その後、筑後守貞能を召して、「当家傾けんと欲する謀叛の輩、京中に満ち満ちたんなり。一門の人々にも触れ申せ。侍ども催せ」と宣へば、馳せまはつて催す。右大将宗盛、三位中将知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛以下の人々、甲冑弓箭を帯して、我も我もと馳せつどふ。そのほか侍ども雲霞のごとくに馳せ集まる。その夜のうちに入道相国の西八条の亭には、兵六七千騎もあるらんとこそ見えたりけれ。
 明くれば六月一日なり。いまだ暗かりけるに、入道相国、検非違使安倍資成を召して、「きつと院の御所へ参れ。大膳大夫信成を呼び出だいて申さんずる事はよな。『新大納言成親卿以下、近習の人々、この一門を滅ぼして天下を乱らんとする企てあり。召し取つて、尋ね沙汰つかまつるべし。それをば君も知ろしめさるまじう候ふ』と申すべし」とぞ宣ひける。
資成急ぎ御所に馳せ参り、信成呼び出だいてこの由申すに、色を失ひ、御所へ参つてこのよし奏聞しければ、「あははや、内々これらが謀りし事の洩れにけるよ」と思し召すに、あさまし。さるにても、「こはなにごとぞ」とばかり仰せられて、分明の御返事もなかりけり。
 資成急ぎ帰つて、このよし申しければ、入道、「さればこそ行綱は真をいひけれ。このこと告げ知らせずは、浄海安穏にてやあるべき」とて、筑後守貞能、飛騨守景家に謀叛の輩、捕ふべき由下知せらる。
よつて二百余騎、三百余騎、あそこここに押し寄せ押し寄せ一々に皆からめとる。
 入道相国、まづ雑色をもつて新大納言成親の宿所へ、「きつと立ち寄り給へ。申し合はすべきことあり」と、宣ひ遣はされたりければ、大納言我が身の上とはつゆ知らず、「あはれ、これは法皇の山攻めらるべき御結構のあるを、申しなだめられんずるにこそ。御憤り深げなり。いかにもかなふまじきものを」とて、ない清げなる法衣たをやかに着なし、あざやかなる車に乗り、侍三人召し具して、雑色牛飼にいたるまで、常よりも引き繕はれたり。そも最後とは後にこそ思ひ知られけれ。
西八条近うなつて見給へば、四五町に軍兵ども満ち満ちたり。
「あなおびたたし、こは何事やらん」と、胸うち騒がれけれども、門前にて車より降り、門の内へ指し入つて見給へば、内にも兵ども隙はざ間もなうぞ満ち満ちたる。中門の口には恐ろしげなる者ども、あまた待ちうけ奉り、大納言をとつて引つ張り、「縛むべう候ふやらん」と申しければ、入道簾中より見出でて、「あるべうもなし」と宣へば、侍ども十四五人立ち囲みて大納言を縁の上へ引き上せ奉り、一間なる所に押し込めてんげり。
大納言は夢の心地して、つやつやものもおぼえ給はず。供なりつる侍ども、大勢に押し隔てられて散り散りになりぬ。雑色牛飼色を失ひ、牛車を捨てて、みな逃げ去りぬ。
 さるほどに、近江中将入道蓮浄、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大夫正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も、囚はれて出で来たり。
 西光法師このよしを聞いて、我が身の上とや思ひけん、鞭をうつて院の御所法住寺殿へ馳せ参る。平家の兵ども道にて行きあひ、「西八条殿より召さるるぞ。きつと参れ」と言ひければ、「これは奏すべき事あつて、院の御所へ参る。やがてこそかへり参らめ」と言ひければ、「につくい入道が、何事をか奏すべかんなるぞ」とて馬より取つて引き落とし、ちうに括つて西八条殿へさげて参る。日の始めより権現与力の者なりければ、ことに強ういましめて、坪の内にぞひつすゑたる。
入道相国、大床に立つてしばしにらまへ、「あなにくや、当家傾けうどする奴がなれる姿よ。しやつここへ引き寄せよ」とて、軒の際へ引き寄せさせ、物はきながら、しや頬をむずむずとぞ踏まれける。
「もとより己等がやうなる下揩フはてを、君の召しつかはせ給ひて、なさるまじき官職をなしたび、父子ともに過分の振舞ひをすると見しにあはせて、あやまたぬ天台座主流罪に申し行ひ、あまつさへこの一門滅ぼすべき謀叛に与してんげるなり。ありのままに申せ」とこそ宣ひけれ。
 西光もとより勝れたる大剛の者なりければ、ちとも色も変ぜず、わろびれたる気色もなく、居なほり、あざわらつて、「さ候ふ。院中に召し使はるる身なれば、執事の別当成親卿の院宣とて催されしに与せずと申すべきやうなし。それは与したり。ただし耳に留まる事をものたまふものかな。他人の前は知らず、西光が聞かんずる所で、さやうの事をばえこそのたまふまじけれ。
そもそも御辺は、故刑部卿忠盛の嫡子にておはせしかども、十四五までは出仕もし給はず。故中御門の藤中納言家成卿の辺に立ち入り給ひしをば、京童部は例の高平太とこそ言ひしか。しかるを保延の頃、海賊の張本三十余人からめ進ぜられたりし賞に、四品して四位の兵衛佐と申ししをだに、時の人は過分とこそ申しあはれしか。
殿上の交じはりをだに嫌はれし人の子孫にて、太政大臣までなりあがつたるや過分なるらん。侍品の者の、受領検非違使に至る事、先例、傍例なきにあらず。なじかは過分なるべき」と、はばかる所もなう申したりければ、入道相国あまりに怒り、しばしは物をも宣はず。
ややあつて入道宣ひけるは、「しやつが首さうなうきるな。よくよく糺問して事の仔細を尋ね問ひ、その後河原へ引き出だして、首を刎ね候へ」とぞ宣ひける。
松浦太郎重俊承つて、足手をはさみ、様々にしていため問ふ。西光もとよりあらがひ申さざりける上、糺問は厳しかりけり。残り無うこそ申しけれ。白状四五枚に記せられて、やがて「しやつが口を裂け」とて、口を裂かれ、五条西朱雀にして、つひに斬られにけり。
 嫡子加賀守師高闕官せられ、尾張の井戸田へ流されたりしを、同国の住人小胡麻の郡司維季に仰せて討たせらる。次男近藤判官師経、獄より引き出だして、六条河原で誅せられ、その弟左衛門尉師平、郎等三人をも同じく首を刎ねられけり。
これらは皆いふかひなき者の秀でて、いろふまじき事にいろひ、あやまたぬ天台座主流罪に申し行ひ、果報や尽きにけん、山王大師の神罰冥罰を立ち所にかうむつて、かかる憂き目にあへりけり。


小教訓 <治承元年>

 新大納言成親卿は一間なる所に押し込められ、汗水になりつつ、「あはれこれは日頃のあらまし事の、洩れ聞こえけるにこそ。誰洩らしぬらん。定めて北面の輩の中にぞあるらん」など、思はじ事なう、案じ続けて居給ひたりける所に、後ろの方より足音の高らかにしければ、あははや我が命失はんとて、武士どもの参るにこそと思ひて、待ち給ふ所に、さはなくて、入道相国、足音高らかに踏みならし、大納言のおはしける後ろの障子を、さつと開かれたり。素絹の衣の短からかなるに、白き大口ふみくくみ、聖柄の刀おしくつろげてさすままに、大納言をしばしにらまへ奉て、「そもそも御辺は、平治にも、すでに誅せらるべかりしを、内府が身にかへて申し請け、首を継ぎ奉しはいかに。何の遺恨を以て、この一門滅ぼすべき御結構は候ひける。恩を知るを人と言ふぞ。恩を知らざるをば畜生とこそ言へ。しかれども当家の運命尽きざるによつて、これまで迎へ奉る。日頃の御結構の次第、直に承らん」とぞ宣ひける。
大納言、「まつたくさること候はず。いかさまに人の讒言にてぞ候ふらん。よくよく御尋ね候ふべし」とぞ申されける。その時入道大きに怒つて、「人やある、人やある」と召されければ、貞能つと参りたり。
「西光めが白状参らせよ」と宣へば、もつて参りたり。入道これを取つて、押し返し押し返し二三遍読み聞かせ、「あなにくや、この上をば何とか陳ずべかんなるぞ」とて、大納言の顔にさつとなげかけ、障子をちやうどたててぞ出でられける。
 入道、なほ腹を据ゑかねて、経遠、兼康と召す。難波次郎、瀬尾太郎参りたり。「あの男とつて庭へ引き落とせ」と宣へば、これらさうなうもし奉らず。「小松殿の御気色、いかが候はんやらん」と申しければ、入道、「よしよし、己等は、内府が命を重んじて、入道が仰せをば軽うじけるごさんなれ。力及ばず」と宣へば、二人の者ども、悪しかりなんとや思ひけん、立ちあがり、大納言の左右の御手をとつて庭へ引き落とし奉る。
その時入道心地よげにて、「とつてふせてをめかせよ」とぞ宣ひける。二人の者ども、大納言の左右の耳に口をあて、「いかさまにも御声の出づべう候ふ」とささやいて、引き臥せ奉れば、二声三声ぞをめかれける。その体、冥途にて、娑婆世界の罪人を、或いは業の秤にかけ、或いは浄頗梨の鏡に引きむけて、罪の軽重に任せつつ、阿防羅刹が呵責すらんも、これには過ぎじとぞ見えし。
蕭樊囚はれて、韓彭醢されたり、錯戮をうけ、周魏罪せらる。たとへば、蕭何樊、韓信、彭越、これらは皆高祖の忠臣たりしかども、小人の讒によつて、禍敗の恥を受くとも、かやうの事をや申すべき。
 新大納言は、我が身のかくなるにつけても、子息丹波少将成経以下、幼き人々のいかなる憂き目にかあふらんと、思ひやるにもおぼつかなし。さばかり暑き六月に、装束をだにもくつろげず、暑さも堪へがたければ、胸もせきあぐる心地して、汗も涙もあらそひてぞ流れける。さりとも小松殿は思し召し放たじものをと思はれけれども、誰して申すべしともおぼえ給はず。
 小松殿は、例の善悪に付けて、騒ぎ給はぬ人にておはしければ、その後はるかにほど経て後、嫡子権亮少将維盛を、車の尻に乗せつつ、衛府四五人、随身二三人召し具して、まことに大様げにておはしたりければ、入道を始め参らせて、一門の人々皆思はずげにぞ見給ひける。大臣中門の口にて、御車より下り給ふ所に、貞能つと参り、「これほどの御大事に、何とて軍兵をば一人も召し具せられ候はぬやらん」と申しければ、大臣、「大事とは天下の大事をこそいへ、かやうの私事を大事といふやうやある」と宣へば、兵杖を帯したりける兵ども、皆そぞろいてぞ見えたりける。
 「そも大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、ここかしこの障子を引きあけ引きあけ見給ふに、ある障子の上に、蜘蛛手結うたる所あり。ここやらんとてあけられたれば、大納言おはしけり。涙にむせびうつぶして、目も見あげ給はず。「いかにや」と宣へば、その時見つけ奉て、うれしげに思はれたる気色、地獄にて罪人どもが地蔵菩薩を見奉るらんもかくやとおぼえてあはれなり。
「何事にて候ふやらん。かかる憂き目にあひ候ふ。さて渡らせ給へば、さりともとこそ頼み参らせて候へ。平治にもすでに誅せらるべく候ひしを、御恩をもつて首をつがれ参らせ、正二位の大納言に昇り、歳すでに四十に余り候ふ。御恩こそ、生生世世にも報じ尽くしがたう候へども、今度も同じくはかひなき命をたすけさせおはしませ。さも候はば、身の暇をたまはつて出家入道つかまつり、高野、粉川にも篭りゐて、一筋に後世菩提の勤めを営み候はん」と申されければ、
小松殿、「まことにさこそ思し召し候ふらめ。さ候へばとて御命失ひ奉るまではよも候はじ。たとひさ候ふとも、重盛かうて候へば、御命にはかはり参らすべし。」とて出でられけり。
 その後、大臣、父の禅門の御前におはして、「あの大納言が首刎ねられん事、よくよく御はからひ候ふべし。先祖修理大夫顕季、白河院に召し使はれてよりこの方、家にその例なき正二位の大納言にあがり、当時無双の御いとほしみ、やがて首を刎ねられん事、しかるべうも候はず。ただ都の外へ出だされたらんに事足り候ひなんず。
北野の天神は、時平の大臣の讒奏にて、憂き名を西海の波に流し、西宮の大臣は、多田満仲の讒言によつて、恨みを山陽の雲に寄す。おのおの無実なりしかども流罪せられ給ひにき。これ皆延喜、安和の帝の御僻事とぞ申し伝へたる。上古なほかくのごとし。況んや末代においてをや。賢王なほ御誤りあり、況んや凡人に於いてをや。すでに召し置かれぬる上は、急ぎ失はれずとても何の恐れか候ふべき。
『刑の疑はしきをば軽んぜよ。功の疑はしきをば重んぜよ』とこそ見えて候へ。事新らしき申し事にては候へども、重盛かの大納言が妹に相具して候ふ。維盛また婿なり。かやうに親しうなつて候へば、申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。ただ世のため、家のため、君のための事を思つて申し候ふ。
一年故少納言入道信西が執権の時に相当たつて、我が朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衛督藤原仲成を誅せられてよりこの方、保元までは、君二十五代の間、行はれざりし死罪を初めて取り行ひ、宇治の悪左府の死骸を掘り起こいて、実検せられてし事など、あまりなる御政とこそおぼえ候ひしか。
されば古の人も、『死罪を行へば、海内に謀叛の輩絶えず』とこそ申し伝へて候へ。この詞について、中二年あつて、平治にまた世乱れて、信西が埋まれたりしを掘り起こし、首を刎ねて大路を渡され候ひき。保元に申し行ひし事のいくほどなく、はや身の上にむかはりにきと思へば、恐ろしうこそ候へ。これはさせる朝敵にもあらず。方々恐れあるべし。御栄華残る所なければ、思し召す事あるまじけれども、子々孫々までも繁盛こそあらまほしう候へ。父祖の善悪は、必ず子孫に及ぶと見えて候ふ。
『積善の家には余慶あり、積悪の門には余殃とどまる』とこそ承れ。いかさまにも今夜首を刎ねられん事、しかるべくも候はず」と申されければ、入道げにもとや思はれけん、死罪は思ひとどまり給ひぬ。
 その後大臣中門に出でて、侍どもに宣ひけるは、「仰せなればとて、あの大納言左右なく失ふべからず。入道殿腹のたちのままに、ものさわがしき事し給ひて、後には必ず悔やみ給ふべし。僻事して我恨むな」と宣へば、兵ども皆舌を振るひ恐れをののく。
「さても今朝、経遠、兼康が、あの大納言に情無うあたりけるこそ、返す返すも奇怪なれ。など重盛が返り聞かんずる所をば恐れざりけるぞ。片田舎の侍どもは、皆かかるぞとよ」と宣へば、難波も瀬尾も、ともに恐れ入りたりけり。大臣はかやうに宣ひて、小松殿へぞ帰られける。
 さるほどに大納言の侍ども、急ぎ中御門烏丸の宿所に帰り参つて、この由かくと申したりければ、北の方以下の女房達、声々にをめき叫び給ひけり。
「少将殿をはじめ参らせて、幼き人々も、皆取られさせ給ふべきとこそ聞こえ候へ。急ぎいづ方へも忍ばせ給へ」と申しければ、北の方、「今はこれほどの身になつて、残りとどまる身とても、安穏にて何にかはせん。ただ同じ一夜の露とも消えん事こそ本意なれ。さても今朝を限りと知らざりける事の悲しさよ」とて、臥しまろびてぞ泣かれける。
すでに武士どもの近づく由聞こえしかば、かくてまた恥ぢがましう、うたてき目を見んも、さすがなればとて、十になり給ふ女子、八歳の男子、一車に取り乗せて、いづちを指すともなくやり出だす。さてしもあるべき事ならねば、大宮を上りに、北山の辺雲林院へぞおはしける。その辺なる僧房におろし置き奉り、送りの者どもは、身の捨てがたさに暇申して帰りにけり。今はいとけなき人々ばかり残りゐて、またこととふ人もなくしておはしける。北の方の心のうち、推し量られてあはれなり。
暮れゆく影を見給ふにつけても、大納言の露の命、この夕べを限りなりと思ひやるにも消えぬべし。
女房、侍多かりけれども、物をだにとり調めず、門をだに推しもたてず。馬どもは厩になみ立ちたれども、草飼ふ者一人もなし。
 夜明くれば、馬車門に立ちなみ、賓客座に連なつて、遊び戯れれ、舞ひをどり、世を世とも思ひ給はず、近きあたりの者どもは、物をだに高く言はず、おぢ恐れてこそ昨日までもありしに、夜の間にかはる有様、盛者必衰の理は目の前にこそ顕れけれ。「楽しみつきて悲しみ来たる」と書かれたる江相公の筆の跡、今こそ思ひ知られけれ。
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乞請少将乞請 <治承元年>

 丹波の少将成経は、その夜しも院の御所法住寺殿に上伏しして、いまだ出でられざりけるに、大納言の侍ども、急ぎ御所に馳せ参り、少将殿呼び出だし奉り、この由申しければ、「などや宰相のもとより、今まで知らせざるらん」と宣ひも果てぬに、宰相殿よりとて御使あり。この宰相と申すは、入道相国の御弟、宿所は六波羅の惣門の内におはしければ、門脇の宰相とぞ申しける。丹波の少将には舅なり。
「何事にて候ふやらん。西八条殿より、きつと具し奉れと候ふ」と、宣ひつかはされたりければ、少将このこと心得て、近習の女房呼び出だし奉り、泣く泣く申されけるは、「ゆふべ何となう世の物騒がしう候ひしを、例の山法師の下りかなど、よそに思ひて候へば、はや成経が身の上にて候ひけり。ゆさり大納言斬らるべう候ふなれば、成経とても同罪にてぞ候はんずらん。今一度御前へ参つて、君をも見参せたく存じ候へども、かかる身にまかりなつて候へば、はばかり存じ候ふ」と申されたりける。
女房たち急ぎ御前へ参つて、このよし奏聞せられければ、法皇「さればこそ。今朝の入道が使にはや御心得あり。さるにてもこれへこれへ」と御気色ありければ、少将御前へ参れたり。法皇御涙を流させ給ひて、仰せ下さるる旨もなし。少将も涙にむせびで、申しあげらるることもなし。
 さてしもあるべき事ならねば、ややあつて少将御前をまかり出でられけるを、法皇後ろをはるかに御覧じおくつて、「ただ末代こそ心うけれ。これが限りにてまたも御覧ぜぬ事もやあらんずらん」とて、御涙せきあへさせ給はず。少将御所をまかり出でけるに、院中の人々、少将の袖をひかへ袂にすがり、涙を流し、袖を濡らさぬはなかりけり。
 舅の宰相のもとへ出でられたれば、北の方は近う産すべき人にておはしけるが、今朝よりこの嘆きをうちそへて、すでにも命も消え入る心地ぞせられける。少将御所をまかり出でられつるより、流るる涙つきせぬに、北の方の有様を見給ひては、いとどせん方なげにぞ見えられける。
少将の乳母に六条といふ女房あり。「御乳に参りはじめ候ひて、君をちの中より抱き上げ奉り、おほしたて参せてよりこの方、月日の重なるにしたがつて、我が身の年のゆくをば歎かずして、君のおとなしうならせ給ふことをのみよろこび候ひ、あからさまとは思へども、今年は二十一年、離れ参らせ候はず。院内へ参らせ給ひて、遅う出でさせ給ふだにも、心苦しう思ひ参らせ候ひつるに、つひにいかなる御目に合はせ給ふべきやらん」とて泣く。
少将、「いたうな歎いそ。宰相さておはすれば、さりとも命ばかりは乞ひ請け給はんずらん」と、やうやうに慰め置き給へども、人目も恥ぢず、泣き悶えけり。
 さるほどに西八条殿より使しきなみにありければ、宰相、「出で向かうてこそ、ともかくもならめ」とて出でられければ、少将も宰相の車の尻に乗つてぞ出でられける。保元、平治よりこの方、平家の人々、楽しみ栄えのみあつて、うれへ嘆きはなかりしに、この宰相ばかりこそ、よしなき婿ゆゑに、かかる嘆きをせられけれ。
 西八条近うなつて、まづ案内を申されたりければ、「少将をば門の内へは入れらるべからず」と宣ふ間、その辺なる侍のもとに下ろしおき奉り、宰相ばかりぞ門の内へは参れける。少将をば、いつしか武士どもうち囲んで、きびしう守護し奉る。さしも頼まれたりつる宰相殿には離れ給ひぬ。少将の心のうち、さこそはたよりなかりけめ。
 宰相、中文にゐ給ひたれども、入道出でもあはれず、ややあつて宰相、源大夫判官季貞をもつて申されけるは、「かやうによしなき者に親しうなり候ひて、返す返す悔しみ候へども、かひも候はず。相具せさせて候ふ者の、このほどなやむこと候ふなるが、今朝よりこの嘆きをうちそへて、すでに命もたえ候ひなんず。教盛かうて候へば、なじかは僻事せさせ候ふべき。少将をばしばらく教盛に預けさせおはしませ」と申されければ、季貞参つてこの由を申す。
入道、「あはれ例の宰相がものに心得ぬよ」とて、とみに返事もし給はず。
ややあつて入道宣ひけるは、「『新大納言成親卿は、この一門滅ぼして天下を乱らんとする企てあり。この少将といふは、すでにかの大納言が嫡子なり。うとうもなれ、親しうもなれ、えこそ申しなだむまじけれ。もしこの謀叛遂げましかば、御辺とても穏しうてやはおはすべき』といふべし」とこそ宣ひけれ。
 季貞帰り参り、宰相殿にこの由を申す。宰相世にも本意なげにて、重ねて申されけるは、「保元、平治よりこの方、度々の合戦にも、御命にはかはり参らせんとこそ存じ候ひしか。この後も荒き風をばまづ防ぎ参せ候ふべし。たとひ教盛こそ年老いて候ふとも、若き子どもあまた候へば、一方の御固めにも、などかならでは候ふべき。それに少将しばらく預からうど申すを、御赦しないは一向教盛を二心あるものと思し召され候ひけるにこそ。これほどに後ろめたう思はれ参せては、世にあつても何かはし候ふべき。今はただ身のいとまを給はつて、出家入道つかまつり、いかならん片山里にも籠りゐて、一筋に後世菩提の勤めを営み候はん。
よしなき浮世のまじはりなり。世にあればこそ望みもあれ、望みのかなはねばこそ恨みもあれ。如かじ憂き世を厭ひ、まことの道に入りなんは」とぞ宣ひける。
季貞参つて、「宰相殿ははや思し召しきつて候ふぞ。ともかく好き様に御ぱからひ候へ」と申しければ、その時入道大きに驚き、「さればとて、出家入道まではあまりにけしからず。その儀ならば、少将をばしばらく御辺に預け奉るといふべし」とこそ宣ひけれ。
季貞帰り参つて、宰相殿にこの由を申す。宰相、「あはれ人の子をば持つまじかりけるものかな。我が子の縁に結ぼほれざらんには、これほどまで心をば砕かじものを」とて出でられけり。
 少将、宰相殿待ちうけ奉つて、「さていかが候ひつる」と申されければ、
宰相、「入道あまりに怒り、教盛にはつひに対面もし給はず。かなふまじき由をしきりに宣ひつれば、出家入道まで申したればにやらん、その儀ならばしばらく教盛に預くるとは宣ひつれども、始終はよかるべしともおぼえず」と宣へば、
少将、「さては成経は御恩をもつてしばしの命の延び候はんずるにこそ。さて父で候ふ大納言が事をば、何とか聞こし召され候ふぞ」と申されければ、
宰相、「いさとよ、御辺のことをこそ、やうやうに申しつれ、それまでは思ひもよらず」と宣へば、
少将涙をはらはらと流いて、「命のをしう候ふも、父をいま一度見ばやと思ふためなり。ゆふさり大納言斬られ候はんずるにおいては、成経とても命いきても何にかはし候ふべき。ただ一所でいかにもなるやうに申してたばせ給ふべうや候ふらん」と申されければ、
宰相世にも苦しげにて、「いさとよ、御辺の事をこそやうやうに申しつれ。それまでは思ひもよらねども、けさ内大臣のやうやうに申されつれば、それもしばらくはよきやうにこそ聞け」と宣へば、
少将聞きもあへ給はず、泣く泣く手を合はせてぞよろこばれける。
子ならざらん者は、誰かただ今我が身の上をさしおいて、これほどまでは喜ぶべき。まことの契りは親子の中にぞありける。子をば人の持つべかりけるものかなと、やがて思ひ返されけり。
さて今朝のごとくに同車して帰られけり。宿所には女房達死にたる人の生き返りたる心地して、さしつどひて皆喜び泣きをぞせられける。


教訓状小松教訓 <治承元年>

 太政入道は、人々かやうに戒めおきても、なほ心ゆかずや思はれけん、すでに赤地の錦の直垂に、黒糸縅の腹巻の白金物打つたる胸板攻め、先年安芸守たりし時、神拝のついでに霊夢をかうむつて、厳島の大明神よりうつつに給はられたりし白銀の蛭巻したる小長刀、常の枕を離たず立てられたりしを脇にはさみ、中門の廊にぞ出でられたる。その気色ゆゆしうぞ見えし。
「貞能」と召す。筑後守貞能、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、御前へにかしこまつて候ふ。
入道宣ひけるは、「いかに貞能、この事いかが思ふ。保元に平右馬助をはじめとして、一門半ば過ぎて新院の御方に参りにき。一の宮の御事は、故刑部卿殿の養ひ君にてましまししかば、かたがた見離し参らせがたかりしかども、故院の御遺誡にまかせて御方にて先を駆けたりき。これひとつの奉公なり。次に平治元年十二月、信頼、義朝が院内をとり奉つて、大内に立て籠つて、天下暗闇となつたりしにも、入道随分身を捨てて、凶徒を追ひ落とし、経宗、惟方を召しいましめしに至るまで、君の御為に、すでに命を失はんとする事度々に及ぶ。されば人何と申すとも、七代までこの一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに成親といふ無用のいたづらもの、西光といふ下賤の不当人めが申すことに付かせ給ひて、この一門滅ぼすべき由の法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ。この後も讒奏する者あらば、当家追討の院宣を下されつとおぼゆるぞ。朝敵となつて後はいかに悔ゆとも益あるまじ。しばらく世をしづめんほど、法皇をば鳥羽の北殿へ移し参らするか、しからずはこれへまれ御幸をなし参らせんと思ふはいかに。その儀ならば、北面の輩どもの中より、矢をもひとつ射んずらん。侍どもにその用意せよと触るべし。およそは入道、院がたの奉公思ひ切つたり。馬に鞍置かせよ。着背長取り出だせ」とぞ宣ひける。
 主馬判官盛国、急ぎ小松殿へ馳せ参つて、「世ははやかう候ふ」と申しければ、大臣聞きもあへず、「あははや、成親卿が頭はねられたるな」と宣へば、「その儀にては候はねども、入道殿音着背長を召され候ふ上、侍ども皆うつたつて、ただ今法住寺殿へ寄せんと出でたち候ふ。法皇をばしばらく鳥羽の北殿へ移し参すせうどは候へども、内々は鎮西の方へ流し参らせうどは擬せられ候へ」と申しければ、大臣、いかでかさることあるべきとは思はれけれども、今朝の禅門の気色、さるものぐるはしき事もやあるらんとて、西八条殿へぞおはしたる。
 門前にて車より降り、門の内へさし入つて見給ふに、入道、腹巻を着給ふ上は、一門の卿相雲客数十人、おのおの色々の直垂に、思ひ思ひの鎧着て、中門の廊二行に着せられたり。そのほか諸国の受領、衛府、諸司なんどは縁にゐこぼれ、庭にもひしと並みゐたり。旗竿どもひきそばめひきそばめ、馬の腹帯をかため、甲の緒をしめ、ただ今皆打つたたんずるけしきどもなるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指貫のそばとつて、ざやめき入り給へば、ことの外にぞ見えられける。
 入道ふし目になつて、あはれ例の内府が、世をへうするやうに振る舞ふかな。大きに諫めばやとこそは思はれけれども、さすが子ながらも、内には五戒を保つて、慈悲を先とし、外には五常をみだらず、礼儀を正しうし給ふ人なれば、あの姿に腹巻を着て向はんこと、さすが面ばゆう、はづかしうや思はれけん、障子を少し引きたてて、腹巻の上に、素絹の衣をあわてぎに着給ひたりけるが、胸板の金物の少しはづれて見えけるを、隠さうど衣の胸をしきりに引きちがへ引きちがへぞし給ひける。
 大臣は舎弟宗盛卿の座上に着き給ふ。入道宣ひ出す旨もなし、大臣も申し上げらるる事もなし。ややあつて入道宣ひけるは、「成親卿が謀叛は事の数にもあらず、一向法皇の御結構にてありけるぞや。しばらく世をしづめんほど、法皇をば鳥羽の北殿へ移し奉るか、しからずはこれへまれ、御幸をなし参らせんと思ふはいかに」と宣へば、大臣聞きあへず、はらはらとぞ泣かれける。入道、いかにいかにとあきれ給ふ。
 ややあつて大臣涙をおさへて申されけるは、「この仰せ承り候ふに、御運ははや末になりぬとおぼえ候ふ。人の運命の傾かんとては、必ず悪事を思ひ立ち候ふなり。また御有様を見参らせ候ふに、さらにうつつともおぼえ候はず。さすがわが朝は、辺地粟散の境とは申しながら、天照大神の御子孫国の主として、天児屋根尊の御末、朝の政を司らせ給ひしよりこの方、太政大臣の宦に至る人の甲冑をよろふ事、礼儀を背くにあらずや。なかんずく御出家の御身なり。それ三世の諸仏、解脱幢相の法衣を脱ぎ捨てて、たちまちに甲冑をよろひ、弓箭を帯しましまさん事、内にはすでに破戒無慙の罪を招くのみならず、外には仁義礼智信の法にも背き候ひなんず。かたがた恐れある申し事にては候へども、心の底に旨趣を残すべきにあらず。
 まづ世に四恩候ふ。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩これなり。その中に最も重きは朝恩なり。普天の下、王地にあらずといふ事なし。されば彼の頴川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折りし賢人も、勅令背き難き礼儀をば存知すとこそ承れ。何ぞ況んや、先祖にもいまだ聞かざつし太政大臣を極めさせ給ふ。いはゆる重盛が無才愚闇の身をもつて、蓮府槐門の位に至る。しかのみならず、国郡半ばは一門の所領となり、田園ことごとく一家の進止たり。これ希代の朝恩にあらずや。今これらの莫大の御恩を思し召し忘れて、みだりがはしく君をかたぶけ参らつさせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。
日本はこれ神国なり。神は非礼をうけ給はず。しかれば君の思し召し立つ所、道理半ばなきにあらず。中にもこの一門は代々の朝敵を平らげて、四海の逆浪をしづむる事は、無双の忠なれども、その賞に誇る事は、傍若無人とも申しつべし。
聖徳太子十七箇条の御憲法に、『人皆心あり。心おのおの執あり。彼を是し我を非し、我を是し彼を非す。是非の理、誰かよく定むべき。あひともに賢愚なり。環のごとくにして端なし。ここをもつて、たとひ人怒るといふとも、還つて我が咎を恐れよ』とこそ見えて候へ。しかれども当家の運命尽きざるによつて、謀叛すでに露はれさぬ。その上仰せ合はせらるる成親卿召しおかれぬる上は、たとひ君いかなる不思議を思し召し立たせ給ふとも、何の恐れか候ふべき。所当の罪科行はるる上は、退いて事の由を陳じ申させ給ひて、君の御ためには、いよいよ奉公の忠勤を尽くし、民のためには、ますます撫育の哀憐をいたさせ給はば、神明の加護に預かつて、仏陀の冥慮に背くべからず。神明仏陀感応あらば、君も思し召し直すこと、などか候はざるべき。君と臣とを双ぶるに、親疎分く方なし。道理と僻事をならべんに、いかでか道理につかざるべき。


烽火の沙汰 <治承元年>

 これは君の御理にて候へば、かなはざらんまでも、法住寺殿を守護し参らせ候ふべし。
そのゆゑは、重盛はじめ叙爵より、今大臣の大将に至るまで、しかしながら君の御恩ならずといふ事なし。その恩の重き事を思へば、千顆万顆の玉にも超え、その恩の深き色を案ずれば、一入再入の紅にもなほ過ぎたらん。しからば院中へ参り籠り候ふべし。その儀にて候はば、重盛が身に代はり、命にかはらんと契りたる侍ども少々候ふらん。これらを召し具して法住寺殿を守護し候はば、さすがもつてのほかの御大事でこそ候はんずらめ。
かなしきかな、君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷廬八万の頂よりもなほ高き父の恩たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪を逃れんとすれば、君の御ためにはすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退維れ谷れり。是非いかにも弁へがたし。
申し請くる所の詮は、ただ重盛が首を召され候へ。院中をも守護し参らすべからず、院参の御伴をも仕るべからず。
 昔の蕭何は大功かたへに踰ゆるによつて、官大相国に至り、剣を帯し沓を履きながら殿上へ昇る事を許されしかども、叡慮に背く事ありしかば、高祖重う戒めて深う罪せられにき。かやうの先蹤を思ふにも、富貴といひ、、栄華といひ、朝恩といひ、重職といひ、かたがた極めさせ給ひぬれば、御運の尽きん事も難かるべきにも候はず。
『富貴の家には禄位重畳せり。再び実なる木は、その根必ず労む』と見えて候ふ。心細うこそ候へ。いつまでか命生きて、乱れん世をも見候ふべき。ただ末代に生をうけて、かかる憂き目にあひ候ふ重盛が果報のほどこそ拙う候へ。ただ今も侍一人に仰せ付けられて、御坪の内に引き出だされて、重盛が頭の刎ねられん事は、いとやすきほどの御事でこそ候はんずらめ。これをおのおの聞き給へや」とて、直衣の袖も絞るばかりに涙を流し、かき口説かれければ、その座にいくらもなみゐ給へる人々、心あるも心なきも、みな鎧の袖をぞ濡らされける。
 入道、頼みきつたる内府は、かやうに宣ふ。力もなげで、「いやいやそれまでも思ひも寄りさうず。悪党どもの申す事につかせ給ひて、僻事などや出で来んずらんと思ふばかりでこそ候へ」と宣へば、
大臣、「たとひいかなる僻事出で来候ふとも、君をば何とかし参させ給ふべき」とて、ついたつて中門に出で、侍どもに宣ひけるは、「汝等よくよく承らずや。今朝よりこれに候ひて、かやうの事どもをも申ししづめんとは存じつれども、あまりにひた騒ぎに見えつる間、帰りつるなり。院参の御供においては、重盛が頭の刎ねられたらんを見てつかまつれ。さらば人参れ」とて、小松殿へぞ帰られける。
大臣主馬の判官盛国を召して、「重盛こそ天下の大事を別して聞き出だしたれ。我と思はんずる者どもは、急ぎ物の具して参れと披露せよ」と宣へば、馳せ回つて披露す。おぼろげにても騒ぎ給はぬ人の、かやうの披露のあれば、別の仔細あることにこそとて、兵どももの具して、我も我もと馳せ参る。淀、羽束瀬、宇治、岡屋、日野、勧修寺、醍醐、小栗栖、梅津、桂、大原、志津原、芹生の里に溢れゐたりける兵ども、或いは鎧着ていまだ甲を着ぬもあり、或いは矢負うていまだ弓を持たぬもあり。片鐙踏まずにて、あわて騒いで馳せ参る。
 小松殿に騒ぐことありと聞こえしかば、西八条に数千騎ありける兵ども、入道にはかうとも申しも入れず、ざやめきつれて、皆小松殿へぞ馳せたりける。少しも弓箭に携はるほどの者の、一人ももるるはなかりけり。
その時入道おおきに驚きて、筑後守貞能を召して、「内府は何と思うて、これをば呼び取るやらん。これにていひつるやうに、浄海がもとへ討手などや向けんずらん」と宣へば、貞能涙をはらはらと流いて、「人も人にこそよらせ給ひ候へ。いかでかただ今さる御事候ふべき。これにて申させ給ひつる事ども、皆はや御後悔ぞ候ふらん」と申しければ、入道、内府に仲違うては、悪しかりなんとや思はれけん、法皇迎へ参せんずる事も、はや思ひ留まり、腹巻脱ぎ置き、素絹の衣に袈裟うちかけて、いと心にもおこらぬ念誦してこそおはしけれ。
 さるほどに、小松殿には盛国承つて、着到付けけり。馳せ参じたる兵ども、一万余騎とぞ記しける。
着到披見の後、大臣中門に出でて、侍どもに宣ひけるは、「日ごろの契約を違へず、参りたるこそ神妙なれ。異国にもさる例あり。周の幽王褒といへる最愛の后を持ち給へり。天下第一の美人なり。されどもこの后、幽王の御心にかなはざりける事は、褒笑みを含まずとて、すべて笑ふ事をし給はず、異国の習ひには、天下に兵革起こるとき、所々に火を挙げ、太鼓を打つて兵を召す謀あり。これを烽火と名づく。
ある時天下にに兵乱起こつて、所々に烽火を上げたりければ、后これを御覧じて、『あなおびたたし、火もあれほど多かりけりな』とて、その時はじめて笑ひ給へり。一度笑めば百の媚びありけん。幽王これを嬉しき事にし給ひて、その事となく、常に烽火をあげ給ふ。諸侯来たるに讐なし、讐なければすなはち去んぬ。かやうにすること度々に及べば、参る者もなかりけりず。
ある時隣国より凶賊起こつて、幽王の都を攻めけるに、烽火を上ぐれども、例の后の火に習ひて、兵も参らず。その時都傾いて、幽王終に滅びにけり。さてかの后は野干なつて走り失せけるぞ恐ろしき。
 かやうの事がある時は、自今以後もこれより召さんには、みなかくのごとく参るべし。重盛不思議の事を聞き出だして召ししつるなり。されどもこの事聞きなほしつ、僻事にてありけり。さらばとう帰れ」とて、皆返されけり。実にはさせる事をも聞き出だされざりけれども、今朝父を諫め申されつる詞にしたがひ、我が身に勢のつくか付かぬかのほどをも知り、また父子戦をせんとにはあらねども、かうして入道大相国の謀叛の心も、やはらぎ給ふかとの謀とぞ聞こえし。
 君、君たらずといふとも、臣もつて臣たらずんばあるべからず。父、父たらずといへども、子もつて子他乱場あるべし。君のためには忠あつて、父のためには孝あり。文宣王の宣ひけるに違はず。君もこの由聞こし召して、「今に始めぬ事なれども、内府が心のうちこそはづかしけれ。怨をば恩をもつて報ぜられたり」とぞ仰せける。
「果報こそめでたくて、大臣の大将にいたらめ。容儀帯佩人に勝れ、才智才覚さへ世に超えたるべしやは」とぞ、時の人々感じ合はれける。「国に諫むる臣あれば、その国必ずやすく、家に諫むる子あれば、その家必ず正しといへり。上古にも末代にも、ありがたかりし大臣なり。
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新大納言流され <治承元年>

 六月二日、新大納言成親卿をば、公卿の座へ出だし奉つて、御物参らせたりけれども、胸せき塞がつて、御箸をだにも立てられず。御車を寄せて、とうとうと申せば、心ならずぞ乗り給ふ。見回せば、軍兵ども、前後左右にうち囲んだり。我が方様の者は一人もなし。いかにもして今一度小松殿に見え奉らばやと思はれけれども、それもかなはず。「たとひ重科をかうむつて遠国へ行く者も、人一人身にそへぬ事やある」とて、車の中にてかきくどかれければ、守護の武士どもも皆鎧の袖をぞ濡らしける。
 西の朱雀を南へ行けば、大内山をも今はよそにぞ見給ひける。年ごろ見慣れ奉りし雑色、牛飼ひに至るまで、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。まして都に残り留まり給ふ北の方、幼き人々の心の中、推し量られてあはれなり。鳥羽殿を過ぎ給ふにも、この御所へ御幸なりしには、一度も御伴にははづれざりしものをとて、我が山荘洲浜殿とてありしをも、余所に見てこそ通られけれ。鳥羽の南の門に出でて、舟遅しとぞ急がせける。
 「こはいづちへとて行くらん。同じう失はるべくは、都近きこの辺にてもあれかし」と宣ひけるこそ、せめてのことなれ。近うそひ奉つたる武士を、「誰そ」と問へば、「難波次郎経遠」と名のり申す。「もしこのほどに我が方さまの者やある。尋ねて参らせよ。舟に乗らぬ先に言ひおくべき事あり」と宣へば、その辺を走りまはつて尋ねけれども、我こそ大納言殿の御方と申す者一人もなし。
「さりとも我が世にありし時は、したがひつきたりし者ども、一二千人もありつらんに、今はよそにてだにこの有様を見送る者のなかりける悲しさよ」とて、泣かれければ、たけきもののふどもも、皆鎧の袖をぞ濡らしける。ただ身にそふ物とては、つきせぬ涙ばかりなり。
熊野詣で、天王寺詣でなどには、二つ瓦の三つ棟に造つたる船にのり、次の船二三十艘漕ぎ連ねてこそありしに、今はけしかるかきすゑ屋形船に大幕ひかせ、見も馴れぬ兵どもに具せられて、今日を限りに都を出でて、波路遥かに赴かれけん、心の内、推し量られてあはれなり。
 その日は摂津国大物の浦に着き給ふ。新大納言、死罪に行はるべかりし人の、流罪になだめられける事は、ひとへに小松殿のやうやうに申されけるによつてなり。
 同じき三日、大物の浦へは京より御使ひありとて、ひしめきけり。新大納言「これにて失へとにや」と聞き給へば、さはなくして、備前の児島へ流すべしとの御使ひなり。
また小松殿より御文あり。「いかにもして、都近き片山里にも置き奉らばやと、さしも申しつる事のかなはざりける事こそ世にあるかひも候はねども、さりながらいづくの浦にもおはせよ、我が命のあらん限り訪ひ奉るべし」とぞ宣ひける。
難波がもとへも、「あひ構へて、よくよくいわはり奉れ。御心にばし違ふな」など宣ひ遣はし、旅のよそほひ、こまごまと沙汰し送られたり。
 新大納言はさしもかたじけなう思し召されける君にも離れ参らせ、つかの間もさり難う思はれける北の方、幼き人々にも別れ果てて、「こはいづちへとて行くらん。ふたたび故郷にかへつて、妻子を相見る事もあり難し。一年山門の訴訟によつて、すでに流されしをも、君惜しませ給ひて、西の七条より召し返されぬ。さればこれは君の御戒めにもあらず、こはいかにしつる事どもぞや」と、天に仰ぎ地に伏して、泣き悲しめどもかひぞなき。
 明くれば、舟おし出だいて下り給ふに、道すがらもただ涙にのみむせびで、ながらふべしとはおぼえねども、さすが露の命は消えやらず、跡の白波隔つれば、都は次第に遠ざかり、日数やうやう重なれば、遠国はすでに近づきぬ。備前の児島に漕ぎ寄せて、民の家のあさましげなる柴の庵に入れ奉る。島のならひ、後ろは山、前は海、磯の松風、波の音、いづれもあはれは尽きせず。


阿古屋の松 <治承元年>

 新大納言一人にも限らず、警めをかうむる輩おほかりき。近江中将入道蓮浄佐渡国、山城守基兼伯耆国、式部大夫正綱播磨国、宗判官信房阿波国、新平判官資行は美作国とぞ聞こえし。
 折節入道相国は、福原の別業におはしけるが、同じき二十日、摂津左衛門盛澄を使者にて、門脇殿のもとへ、「丹波少将、急ぎこれへたび候へ。尋ぬべき事あり」と宣ひ遣はされたりければ、宰相、「さらばただありし時、ともかくもなりたりせばいかがせん。今さらまた物を思はせんずらん悲しさよ」とて、下り給ふべき由宣へば、少将泣く泣く出で立たれけり。
 女房たちは、「かなはぬものゆゑに、なほもただ宰相の申されよかし」ともだえこがれ給ひけり。宰相、「存ずるほどの事は申しつ。今は世を捨てつるよりほかは、何事をか申すべき。さりながらいづくの浦にもおはせよ、我が命のあらん限りはとぶらひ奉るべし」とぞ宣ひける。
 少将は今年三つになり給ふ幼き人を持ち給へり。日ごろは若き人にて、公達などの事もさしもこまやかにおはせざりしかども、今はの時にもなりしかば、さすがに心にやかかられけん、「幼き者を今一度見ばや」とこそ宣ひけれ。乳母抱き参りたり。少将膝の上に置き、髪かきなで、涙をはらはらと流いて、「あはれ汝七歳にならば男になし、君へ参らせんとこそ思ひしに、されども今はいふかひなし。もし不思議に命生きておひたちたらば、法師になつて、我が後の世をよく弔へよ」とぞ宣ひける。
いまだいとけなき心に、何事をか聞き分け給ふべきなれども、うちうなづき給へば、少将をはじめ参らせて、母上乳母の女房、その座にいくらもなみゐ給へる人々、心あるも心なきも、みな袖をぞ濡らされける。
福原の御使ひ、今夜鳥羽まで出でさせ給ふべき由申しければ、少将、「いくほども延びざらんものゆゑに、今宵ばかりは都のうちにて明かさばや」と宣ひけれども、かなふまじき由をしきりに申しければ、力及び給はず、その夜鳥羽へぞ出でられける。
 同じき二十二日、少将福原へ下り着き給ひたりければ、入道相国、備中国の住人瀬尾太郎兼康に仰せて、備中国へぞ流されける。兼康は宰相の返り聞き給はん所を恐れて、道すがらもやうやうにいたはり慰め奉る。されども、少将慰み給ふ事もなし。夜昼ただ仏の御名をのみ唱へて、父の事をぞ祈られける。
 さるほどに新大納言は、備前の児島におはしけるを、預かりの武士難波次郎経遠、「これはなほ船着き近うて悪しかりなん」とて、地へ渡し奉り、備前備中のさかひ、庭瀬の郷、有木の別所といふ山寺に置き奉る。備中の瀬尾と有木の別所との境、わづかに五十町に足らざる所なりければ、少将さすがそなたの風もなつかしうや思はれけん、ある時兼康を召して、「これより大納言殿の御渡りあんなる有木の別所とかやへはいかほどの道ぞ」と問ひ給へば、兼康すぐに知らせ奉つては、悪しかりなんとや思ひけん、「片道十二三日候ふ」と申す。
その時少将涙をはらはらと流いて、「日本は昔三十三箇国にてありけるを、中ごろ六十六箇国には分けられたんなり。さいふ備前備中備後も、もとは一国にてありけるなり。また東に聞こゆる出羽陸奥も、昔は六十六郡が一国なりしを、十二郡を割き分かつて後、出羽の国とは立てられたんなり。されば実方の中将奥州へ流されし時、当国の名所、阿古屋の松を見ばやとて、国の内を尋ね参りけるに、尋ねかねてすでにむなしく帰りける道にて、老翁の一人行きあひたり。
中将、『やや御辺は旧き人とこそ見奉れ。当国の名所、阿古屋の松といふ所や知りたる』と問ふに、『まつたく当国の内には候はず、出羽国にや候ふらん』と申しければ、『さては汝も知らざりけり。世末になつて、国の名所をも、はや呼び失ひたるにこそ』とて、すでに過ぎんとし給へば、老翁中将の袖をひかへて、『あはれ、君は、
  みちのくの阿古屋の松に木がくれていづべき月の出でもやらぬか
といふ歌の心をもつて、当国の名所、阿古屋の松とは御尋ね候ふか。それは昔両国が一国なりし時、詠み侍る歌なり。十二郡を割き分かつて後は、出羽国にや候ふらん』と申しければ、さらばとて実方の中将も、出羽国に越えてこそ、阿古屋の松をば見たりけれ。
筑紫の大宰府より都へ腹赤の使ひの上るこそ、歩路十五日とは定めたれ。すでに十三日と申すは、ほとんど鎮西へ下向ござんなれ。遠しといふとも、備前備中の境、両三日にはよも過ぎじ。近いを遠う申すは、父大納言殿の御渡りあんなる所を、成経に知らせじとてこそ申すらめ」とて、その後は恋しけれども問ひ給はず。
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大納言死去 <治承元年>

 さるほどに法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少将、相具して、三人薩摩方鬼界が島へぞ流されける。かの島へは都を出でて、多くの波路をしのぎてはるばるとゆく所なり。おぼろげにては舟も通はず、島にも人まれなり。
おのづから人はあれども、いふ詞も聞き知らず。しきりに毛生ひつつ、色黒うして牛のごとし。衣裳なければ人も似ず。男は烏帽子もせず、女は髪もさげざりけり。食する物もなければ、ただ殺生をのみ先とす。しづが山田を返さねば、米穀の類もなく、園の桑を採らざれば、絹帛の類もなかりけり。島の中には高山あり。とこしなへに火燃え、硫黄といふもの満ち満てり。かるがゆゑに硫黄が島とも名付けたり。雷常に鳴り上がり、鳴り下がり、麓には雨しげし。一日片時人の命の堪へてあるべきやうもなし。
 さるほどに、新大納言は少しくつろぐこともやと思はれけるが、子息丹波少将成経もはや薩摩方鬼界が島へ流されぬと聞いて、「今は何をか期すべき」とて、便りに付けて、小松殿へ出家の心ざし候ふ由申されたりければ、法皇へ伺ひ申して、御免ありけり。やがて出家し給ひぬ。栄華の袂を引きかへて、憂き世をよそに墨染めの袖にぞやつれ給ひける。
 さるほどに、大納言の北の方は、都の北雲林院の辺に忍ばれけるが、さらぬだに住み馴れぬ所は物憂きに、いとどしのばれければ、過ぎ行く月日も明かしかね、暮らしわづらふ様なりけり。女房、侍多かりけれども、或いは世を恐れ、或いは人目をつつむほどに、問ひとぶらふ者一人もなし。
されどもその中に源左衛門尉信俊といふ侍一人、情けある者にて、常はとぶらひ奉る。ある時北の方、信俊を召して、「まことやこれには、備前の児島におはしけるが、このほど聞けば、有木の別所とかやにおはすなり。いかにもして、今一度はかなき筆の跡をも奉り、御音信をも聞かばやと思ふはいかに」と宣へば、
信俊涙をはらはらと流いて、「幼少の時より御憐れみをかうぶつて、片時も離れ参らせ候はず。召され参らせ候ひし御声も耳にとどまり、諫められ参らせ候ひし御言葉も肝に銘じて、忘るる事も候はず。西国へ御下りの時も、御伴つかまつるべう候ひしかども、六波羅より赦されなければ、力及ばず。今度はたとひいかなる憂き目にも逢ひ候へ、御文を給はつて下り候はん」と申しければ、北の方なのめならず喜び、やがて書いてぞ賜うだりける。若君、姫君も面々に御文あり。
信俊この御文どもを給はつて、はるばると備前国有木の別所へ尋ね下る。預かりの武士難波次郎経遠にこの由を言ひ入れたりければ、心ざしのほどを感じて、やがて見参に入たりける。大納言入道殿は、ただ今も都の事を宣ひ出だして、歎きしづみでおはしける所に、「京より信俊が参つて候ふ」と申しければ、その時起き上がり、「いかにやいかにや、夢かうつつか、これへこれへ」とぞ宣ひける。信俊、御そば近う参つて御有様を見奉るに、まづ御すまひの心うさはさる事にて、墨染めの御袂を見奉るにぞ、目もくれ心も消えておぼえける。
北の方の仰せかうむつし次第、こまごまと語り申して、御文取り出でて奉る。これを開けて見給ふに、水茎の跡は涙にかきくれて、そこはかとは見えねども、「幼き人々のあまりに恋ひ悲しみ給ふ有様、我が身も尽きせぬ物思ひに堪へ忍ぶべうもなし」など書かれたれば、「日ごろの恋ひしさは事の数ならず」とぞ悲しみ給ふ。
 かくて四五日も過ぎしかば、信俊、「これに候ひて、最後の御有様をも見参らせん」と申しければ、預かりの武士かなふまじき由を申す間、大納言入道力及び給はず。「さらばとう上れ」とこそ宣ひけれ。
御返事書いて賜うだりければ、信俊これを給はつて、「またこそ参り候はめ」とて、いとま申して出でければ、「汝がまた来んたびを待ち尽くべしともおぼえぬぞ。あまりにしたはしくおぼゆるに、しばししばし」と宣ひて、たびたびよびぞ返されける。
 さてしもあるべき事ならねば、信俊涙をおさへつつ、都へ帰り上りけり。
北の方に、返事取り出だして奉る。これを開けて見給ふに、文の奥に御髪の一房ありけるを、二目とも見給はず。はや御様かへさせ給ひてけりとおぼしくて、形見こそなかなか今はあだなれとて、引きかづいてぞ臥し給ふ。若君、姫君もをめき叫び給ひけり。
 さるほどに、大納言入道殿をば、同じき八月十九日、備前備中の境、吉備の中山といふ所にてつひに失ひ奉る。その最期の有様やうやうに聞こえけり。はじめは酒に毒を入れて勧めけれども、かなはざりければ、二丈ばかりありける岸の下に菱を植ゑて、突き落とし奉れば、菱に貫かつてぞ失せられける。無下にうたてき事どもなり。例少なうぞ聞こえし。
 さるほどに、大納言の北の方、都北山雲林院の辺に忍ばれけるが、はやこの世に無き人と聞き給ひて、「今は何をか期すべき」とて、菩提院といふ寺におはして様をかへ、形のごとくの仏事いとなみ給ふぞあはれなる。
 この北の方と申すは、山城守敦方の娘、後白河法皇の御思ひ人、無双の美人にておはしけるを、この大納言有り難き寵愛の人にて、下し給はられたりけるとかや。若君、姫君も、面々に花を手折り、閼伽の水を掬びて、父の後世をとぶらひ給ふぞあはれなる。かくて時移り事去つて、世のかはり行く有様は、ただ天人の五衰に異ならず。


徳大寺厳島詣で <治承元年>

 ここに徳大寺の大納言実定卿は、平家の次男宗盛卿に大将を超えられて、しばらく世のならんやうを見んとて、大納言を辞して籠居しておはしけるが、「出家せん」と宣へば、御内の上下皆歎き悲しびあへりけり。
 ここに藤蔵人大夫重兼といふ諸大夫あり。諸事に心得たる人にておはしけるが、ある月の夜、実定卿ただ独り南面の御格子挙げさせ、月にうそぶいておはしけるに、藤蔵人参りたり。
大納言「誰そ」と宣へば、「重兼候ふ」。「夜は遥かにふけぬらんに、いかにただ今何事ぞ」と宣へば、「今夜はあまりに月冴え、よろづ心の澄むままに参つて候ふ」。大納言、「神妙なり。何とやらん、世に徒然なるに」とぞ宣ひける。
その後、昔今の物語りどもし給ひて後、大納言宣ひけるは、「つらつら平家の繁盛する有様をみるに、入道相国の嫡子重盛、次男宗盛、左右の大将にてあり。やがて三男知盛、嫡孫維盛もあるぞかし。彼もこれも次第にならば、他家の人々、いつ大将に当たりつくべしともおぼえず。されば終の理、出家せん」とぞ宣ひける。
藤蔵人涙をはらはらと流いて、「君の御出家候ひなば、御内の上下、皆まどひ者となり候ひなんず。重兼こそ、めづらしき事を案じ出だして候へ。たとへば安芸の厳島をば、平家なのめならず崇めうやまはれ候ふ。御参り候へかし。かの社には内侍とて、優なる舞姫ども多く候ふ。一七日ばかり御参籠候はば、めづらしく思ひ参らせてももてなし参らせ候はんずらん。『何事の御祈誓に御参り候ふぞ』と尋ね申し候はば、ありのままに仰せ候ふべし。さて御下向の時、宗徒の内侍一両人都まで召し具せさせ給ひて候はば、定めて西八条殿へぞ参り候はんずらん。入道相国尋ね申され候はば、ありのままにぞ申し候はんずらん。入道は極めて物めでし給ふ人にて、しかるべきはからひもあんぬとおぼえ候ふ。あはれ御参り候へかし」と申しければ、大納言、「これこそ思ひ寄らざりつれ。やがて参ん」とて、にはかに精進はじめつつ、厳島へぞ参られける。
 げにも優なる舞姫ども多かりけり。「当社へは、我等が主の、平家の公達こそ、御参り候ふに、この御参りこそめづらしう思ひ参らせ候へ。何事の御祈誓に御参り候ふぞ」と尋ね申しければ、「我はこれ大将を人に超えられて、その祈りのためなり」と仰せける。一七日御参籠ありけるに、夜昼つきそひ奉てもてなし奉る。七日が内に神楽し、風俗、催馬楽歌はれけり。舞楽三箇度までありけり。
 さて御下向の時、宗徒の内侍十余人、船をしたてて、一日路送り奉る。あまりに名残惜しきに、今一日路、今二日路と宣ひて、都までこそ具せられけれ。徳大寺の亭へ入れさせおはしまし、やうやうにもてなし、さまざまの引き出物を賜うで帰されけり。内侍ども、「これまで上りたらんずるに、いかでか我等が主の平家へ参らであるべき」とて、西八条殿へぞ参りたる。
 入道やがて出であひ対面して、「いかに内侍どもは、何事の列参ぞ」「徳大寺殿の厳島へ御参り候ふほどに、我等が船をしたてて、一日路送り参らせて候へば、あまりに名残惜しきに、今一路、今二日路と仰せられて、これまで召し具せられて候ふ」と申す。入道、「いかに徳大寺は何事の祈誓に厳島へは参られけるやらん」と問はれければ、「大将の御祈りのためとこそ仰せ侍りつれ」と申しければ、その時入道大きにうちうなづき、「あないとほし。王城にさしもあらたなる霊仏霊社のいくらもましますをさしおいて、浄海が崇め奉る厳島まではるばると参られけるこそいとほしけれ。これほどに切ならん上は」とて、嫡子重盛内大臣の左大将にておはしけるを辞せさせ奉り、次男宗盛大納言の右大将にておはしけるを超えさせて、徳大寺を左大将にぞなされける。あはれかしこき策かな。
 新大納言も、かやうの策をばし給はで、由なき謀叛興して、我が身も子孫も、滅びぬるこそうたてけれ。


山門滅亡 <治承元年>※史実では治承三年頃

 さるほどに、法皇は三井寺の公顕僧正を御師範として、真言の秘法を伝授せさせおはしますが、大日経、金剛頂経、蘇悉地経、この三部の秘経を受けさせ給ひて、九月四日、三井寺にて御灌頂あるべきと聞こゆ。山門の大衆憤り申しけるは、「御灌頂音受戒は、みな当山にして遂げさせまします事先規なり。なかについて山王の化導は、受戒灌頂のためなり。しかるを今三井寺にて遂げさせおはしまさば、寺を一向焼き払ふべし」とぞ申しける。
法皇、「これ無益なり」とて、御加行を結願して、思し召し留らせ給ひけり。さりながらもなほ御本意なればとて、公顕僧正を召し具し、天王寺へ御幸なつて、五智光院を建て、亀井の水を五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂をば遂げさせましましける。
 山門の騒動をしづめんがために、三井寺にて御灌頂はなかりしかども、山門には堂衆、学生不快の事出で来て、合戦度々に及ぶ。毎度に学侶うち落とされて、山門の滅亡、朝家の大事とぞ見えし。堂衆といふは、学生の所従なりける童部の法師になりたるや、もしは中間法師原にてもやありけん。金剛寿院の座主覚尋権僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆と号して、仏に花参らせし者どもなり。近年行人とて、大衆をも事ともせず振る舞ひしが、かく度々の戦に打ち勝ちぬ。
堂衆等師主のの命を背いて合戦を企つ、速やかに誅罰せらるべき由、公家に奏聞し、武家に触れ訴ふ。これによつて、入道相国院宣を承つて、紀伊国の住人、湯浅権守宗重以下、畿内の兵二千余人、大衆に差し添へて堂衆を攻めらる。堂衆日ごろは東陽坊にありけるが、これを聞いて、近江国三箇の庄に下向して、あまたの勢を率してまた登山し、早尾坂に城郭を構へてたて籠る。
 九月二十日の辰の一点に、大衆三千人、官軍二千余人、都合その勢五千余人、早尾坂に押し寄せて、鬨をどつとぞ作りける。今度はさりともとこそ思ひつるに、大衆は官軍を先立てんとす。官軍は大衆を先立てんと争ふほどに、心々になつて、はかばかしうも戦はず。城の内より石弩はづし懸けたりければ、大衆、官軍数を尽くいて打たれにけり。堂衆に語らふ悪党といふは、諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊等なりけり。欲心熾盛にして死生知らずの奴ばらなれば、我一人と思ひ切つて戦ふほどに、今度もまた学生戦ひ負けにけり。
 その後は山門いよいよ荒れ果てて、十二禅衆のほかは、止住の僧侶もまれなり。谷々の講演摩滅して、堂々の行法も退転す。修学の窓を閉ぢ、座禅の床を空しうせり。四教五時の春の花もにほはず、三諦即是の秋の月も曇れり。
三百余歳の法燈をかかぐる人もなく、六時不断の香の煙も絶えやしにけん。堂舎高く聳えて、三重の構へを青漢の内にさしはさみ、棟梁遥かに秀でて、四面の垂木を白霧の間に懸けたりき。されども今は供仏を嶺の嵐に任せ、金容を紅瀝に湿し、夜の月燈をかかげて、軒の隙より漏り、暁の露、珠を垂れて、蓮座のよそほひを添ふとかや。
 それ末代の俗に至つては、三国の仏法も次第に衰微せり。遠く天竺に仏跡をとぶらへば、昔仏の法を説き給ひし竹林精舎、給狐独園も、このごろは虎狼野干のすみかとなつて、礎のみや残るらん。白鷺池には水絶えて、草のみ深くしげれり。
退凡下乗の卒塔婆も苔のみ埋みて傾きぬ。震旦にも天台山、五台山、白馬寺、玉泉も、今は住侶なきさまに荒れ果てて、大小乗の法門も、箱の底にや朽ちぬらん。我が朝にも南都の七大寺荒れ果てて、八宗九宗も跡絶え、愛宕、高雄も、昔は堂塔軒を並べたりしかども、一夜のうちに荒れ果てて、天狗の住みかとなり果てぬ。さればにや、さしもやんごとなかりつる天台の仏法も、治承の今に及んで、滅び果てぬるにや。心ある人の歎き悲しまぬはなかりけり。何者のしわざにやありけん、離山しける僧の坊の柱に、一首の歌をぞ書き付けける。
  祈り来し我が立つ杣の引きかへて人なき峰となりやはてなむ
これは伝教大師、当山草創の昔、阿耨多羅三藐三菩提の仏達に祈り申されし事を思ひ出でて詠みたりけるにや。いとやさしうぞ聞こえし。
 八日は薬師の日なれども、南無と唱ふる声もせず、卯月は垂迹の月なれども、幣帛を捧ぐる人もなく、緋の玉垣神さびて、注連縄のみや残るらん。


善光寺炎上 <治承三年>

 その頃信濃国善光寺炎上の事ありけり。かの如来と申すは、昔、中天竺舎衛国に五種の悪病発つて、親疎多く滅びにしかば、月蓋長者が致請によつて、竜宮城より閻浮檀金を得て、仏、目蓮長者、心を一にして、鋳顕し奉る一手半の弥陀の三尊、三国無双の霊像なり。仏滅度の後、中天竺に留まらせ給ふ事、五百余歳。されども仏法東漸の理にて、百済国に移らせ給ひて、一千歳の後、百済の帝斉明王、我が朝の欽明天皇の御宇に当つて、かの国よりこの国へ移らせ給ひて、摂津国難波の浦にて星霜を送らせおはします。常に金色の光を放ち給ひければ、これによつて年号を金光と号す。
 同じき三年三月上旬に、信濃国の住人大海本太善光、都へ上り、如来に逢ひ奉て、昼は善光、如来を負ひ奉り、夜は善光、如来に負はれ奉り、信濃国へ下り、水内郡に安置し奉てよりこの方、星霜すでに五百八十余歳、炎上これ始めとぞ承る。「王法尽きんとては、仏法まづ亡ずと言へり。さればにや、さしもやんごとなかりつる霊寺、霊山多く滅びぬる事、王法の末になりぬる先表やらん」とぞ人申しける。
チヤク &#x; [才桀] ≒[才{[丙丙]/木}]


祝言 <治承元年>

 さるほどに、鬼界が島の流人ども、露の命草葉の末にかかつて、惜しむべしとにはあらねども、丹波少将の舅平宰相の領、肥前国鹿瀬の庄より、衣食を常に送られければ、それにてぞ俊寛僧都も康頼も命を生きては過ごしける。康頼は流されし時、周防の室積にて出家してんげれば、法名は性照とこそ付きたりけれ。出家はもとより望みなりければ、
  つひにかく背きはてける世の中をとく捨てざりしことぞ悔しき
 丹波少将と康頼入道は、もとより熊野信心の人々にておはしければ、「この島の内に、三所権現を勧請し奉つて、帰洛のことを祈り申さばや」といふに、俊寛は、天性不信第一の人にて、これを用ゐず。
二人は同じ心にて、もし熊野に似たる所もやあると、島の内を尋ぬるに、或いは林塘の妙なるあり、紅錦繍のよそほひ品々に、或いは雲嶺のあやしきあり、碧羅綾の色ひとつにあらず。山のけしき、樹の木立に至るまで、ほかよりなほ勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波、煙の浪深く、北を顧みれば、また山岳の峨峨たるより、百尺の滝水みなぎり落ちたり。滝の音ことに凄まじく、松風神さびたるすまひ、飛滝権現のおはします那智の御山にさも似たりけり。さてこそやがて、そこをば那智の御山とは名づけけれ。この峰は本宮、かれは新宮、これはそんじやうその王子、かの王子など、王子王子の名を申して、康頼入道先達にて、丹波少将あひ具しつつ、日ごとに熊野詣での真似をして、帰洛のことをぞ祈りける。
「南無権現金剛童子、願はくは憐れみを垂れさせおはしまして、我等を故郷へ返し入れさせ給ひて、妻子どもを今一度見せしめ給へ」とぞ祈りける。日数積もつて、裁ちかふべき浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、沢辺の水を垢離かいては、岩田川の清き流れと思ひやり、高き所に上つては、発心門とぞ観じける。
 康頼入道、参るたびごとには、三所権現の御前へにて祝言を申すに、御幣紙もなければ、花を手折つて捧げつつ、
「維当れる歳次、治承元年丁酉、月の並び十月二月、日の数三百五十余箇日、吉日良辰を撰び、掛けまくも忝く、日本第一大霊験、熊野三所権現、飛滝大薩の教令、宇豆の広前にして、信心の大施主、羽林藤原成経、並びに沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の心ざしを抽でて、謹んで以て敬白す。
夫れ証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王なり。或いは東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来なり。或いは南方補堕落能化の主、入重玄門の大士、若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願を満て給へり。是に依つて、上一人より下万民に至るまで、或いは現世安穏の為、或いは後生善所の為に、朝には浄水を掬んで煩悩の垢を雪ぎ、夕べには深山に向かつて宝号を唱ふるに、感応懈る事なし。
峨峨たる嶺の高きをば、神徳の高きに喩へ、嶮嶮たる谷の深きをば、弘誓の深きに準へて、雲を分きて登り、露を凌いで下る。ここに利益の地を憑まずんば、争か歩みを嶮難の路に運ばん。権現の徳を仰がずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさん。仍つて証誠大権現、飛滝大菩、青蓮慈悲の眸を相並べ、佐小鹿の御耳を振り立てて、我等が無二の丹誠を知見して、一一の懇志を納受し給へ。然れば則ち、結、早玉の両所権現、各々機に随つて、有縁の衆生を導き、無縁の群類を救はんが為に、七宝荘厳の栖を捨てて、八万四千の光を和らげ、六道三有の塵に同ず。故に定業亦能転、求長寿得長寿の礼拝袖を連ね、幣帛礼奠を捧ぐること暇なし。忍辱の衣を重ね、覚道の花を捧げて、神殿の床を動かし、信心の水を清し、利生の池を湛へたり。
神明納受し給はば、所願何ぞ成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所権現、利生の翅を双べ、遥かに苦海の空に翔けり、左遷の愁へを歇めて、速かに帰洛の本懐を遂げしめ給へ。再拝」
とぞ、康頼祝言をば申しける。
タ &#x; [土垂]


卒都婆流し <治承元年>

 丹羽少将成経、平判官康頼、常は三所権現の御前に参り、通夜する折もありけり。
 ある夜二人通夜して、夜もすがら今様をこそ歌ひけれ。康頼入道、暁方苦しさに、ちとまどろみたる夢に、沖の方より白帆掛けたる小舟一艘漕ぎ寄せて、紅の袴着たりける女房達、二三十人渚にあがり、鼓を打ち、声を調へて、
  よろづの仏の願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき
  枯れたる草木も忽ちに 花咲き実生るとこそ聞け
と三返歌ひすまして、かき消すやうにぞ失せにける。康頼入道夢さめて後、奇異の思ひをなして申しけるは、「これはいかさま竜神の化現とおぼえたり。三所権現の内に、西の御前と申すは、本地千手観音にておはします。竜神はすなはち千手の二十八部衆のその一なれば、もつて御納受こそ頼もしけれ」。
 またある夜、二人通夜して同じくまどろみたりける夢に、沖の方より吹き来る風の、二人が袂に木の葉を二つ吹きかけたり。何となうこれを取つて見たりければ、御熊野の栴の葉にてぞありける。かの二つの栴の葉に、一首の歌を虫食ひにこそしたりけれ。
  ちはやぶる神に祈りのしげければなどか都へ帰らざるべき
康頼入道、故郷の恋しさの余りに、せめての謀にや、千本の卒都婆をつくり、阿字の梵字、年号、月日、仮名実名、二首の歌をぞ書き付けける。
  薩摩方沖の小島に我ありと親には告げよ八重の潮風
  思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほふるさとは恋しきものを
これを浦に持ち出でて、「南無帰命頂礼、梵天、帝釈、四大天王、堅牢地神、往生の鎮守諸大明神、別しては熊野権現、安芸の厳島大明神、せめては一本なりとも、都へ伝へてたべ」とて、沖つ白波の、寄せては返るたびごとに、卒都婆を海にぞ浮かべける。
 卒都婆は造り出だすにしたがつて、海に入れければ、日数積もれば卒都婆の数も積もりにけり。その思ふ心や便りの風ともなりたりけん、また神明仏陀もや送らせ給ひたりけん、千本の卒都婆の中に一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ち寄せたり。
 ここに康頼入道がゆかりありける僧の、もししかるべき便りもあらば、かの島へ渡つて、その行方をも聞かんとて、西国修行に出でたりけるが、まづ厳島へぞ参りける。ここに宮人とおぼしくて、狩衣装束なる俗一人よりあうたり。この僧何となう物語りをしけるほどに、「それ和光同塵の利生さまざまなりといへども、この御神はいかなりける因縁をもつて、海漫の鱗に縁をば結ばせ給ふらん」と問ひ奉る。宮人こたへけるは、「これはよな、娑竭羅竜王の第三の姫宮、胎蔵界の垂迹なり」。この島へ御影向ありし始めより、済度利生の今に至るまで、深甚奇特の事をぞ語りける。
 さればにや、八社の御殿甍を並べ、社はわだづ海のほとりなれば、潮の満干に月ぞ澄む。潮満ちくれば、大鳥居、緋の玉垣、瑠璃のごとし。潮引きぬれば、夏の夜なれども、御前の白洲に霜ぞ置く。いよいよ尊くおぼえてゐたりけるが、やうやう日暮れ、月さし出でて、潮の満ちけるに、そこはかとなき藻屑どもの中に、卒都婆の姿の見えけるを、何となうこれを取り見たりければ、「沖の小島に我あり」と、書き流せる言の葉なり。文字をば彫り入れ、刻み付けたりければ、波にも洗はれず、あざあざとしてぞ見えたりける。
あな不思議とて、これを取つて、笈の肩にさして都へ上り、康頼入道が老母の尼公、妻子どもの、一条の北、紫野といふ所に忍び住みけるに、これを見せたりければ、「さらば、この卒都婆が、唐土の方へもゆられ行かず、何しにこれまで伝ひ来て、今さらものを思はすらん」とぞ悲しみける。
遥かの叡聞に及んで、法皇これを叡覧あつて、「あな無慙、いまだこの者どもが命の生きてあるにこそ」とて、御涙を流させ給ふぞかたじけなき。これを小松の大臣のもとへ送らせ給ひたりければ、父の禅門に見せ奉り給ふ。
 柿本人麻呂は、島がくれ行く舟を思ひ、山部赤人は、葦辺の田鶴をながめ給ふ。住吉の明神は、かたそぎの思ひをなし、三輪の明神は、杉立てる門を指す。昔、素盞嗚尊、三十一字のやまと歌をはじめ置き給ひしよりこの方、諸々の神明仏陀も、かの詠吟をもて、百千万端の思ひを述べ給ふ。


蘇武 <治承元年>

 入道も岩木ならねば、さすがあはれげにぞ宣ひける。入道相国憐れみ給ふ上は、京中の上下、老いたるも若きも、鬼界が島の流人の歌とて、口ずさまぬはなかりけり。さても千本まで作つたる卒都婆なれば、さこそは小さうもありけめ。薩摩方よりはるばると都まで伝はりけるこそ不思議なれ。
 あまりに思ふ事はかく験あるにや。
古、漢王、胡国を攻められけるに、始めは李少卿を大将軍にて、三十万騎を向けらる。漢の戦ひ弱くして、胡国の戦ひ勝ちにけり。兵多く打ち滅ぼされて、その中に大将軍李少卿、胡王のために生け捕にせらる。次に蘇武を大将軍にて、五十万騎を向けらる。今度もまた漢の戦ひ弱くして、胡の兵勝ちにけり。兵六千余人生け捕りにせらる。その中に大将軍蘇武を始めとして、六百三十余人すぐり出だし、一々に片足を切つて追つ放す。即ち死ぬる者もあり、ほど経て死ぬる者もあり。
その中に蘇武は一人死なざりけり。片足無き身となつて、山に登つては木の実を拾ひ、里に出でては根芹を摘む。秋は田面の落穂拾ひなどしてぞ露の命を過ごしける。田にいくらもありける雁ども、蘇武に見馴れて恐れざりければ、これ等は皆我が故郷へ通ふ者ぞかしと懐かしさに思ふ事を一筆書いて、「これ相構へて漢王に得させよ」と言ひ含めて、雁の翅に結び付けてぞ放ちける。
かひがひしくも田の面の雁、秋は必ず塞路より都へ来たる者なれば、漢の昭帝上林苑に御遊ありしに、夕ざれの空薄曇り、何となう物あはれなりける折節、一行の雁飛び渡る。その中に雁一つ飛びさがつて、おのが翅に結ひ付けたる玉章を、食ひきつてぞ落としける。
官人これを取つて、帝へ参らせたりければ、披いて叡覧あるに、「昔は巌窟の洞に籠められて、三春の愁歎を送り、今は曠田の畝に捨てられて、胡狄の一足となれり。たとひ屍は胡の地に散らすと雖も、魂は二度君辺に仕へん」とぞ書いたりける。それよりしてぞ、文をば雁書ともいひ、雁札ともまた名付けける。
 今度は漢の戦ひ強くして、胡国くの戦破れにけり。味方戦ひ勝ちぬと聞こえしかば、蘇武は曠野の中より這ひ出でて、「これこそ古の蘇武よ」と名乗る。片足無き身となつて、十九年の間星霜を送り迎へ、輿にかかれて、旧里へぞ帰りける。
 蘇武は十六の歳、胡国へ向けられたりけるが、帝より賜はつたりける旗をば何としてか持ちたりけむ、この十九年の間巻いて身を離たず持ちたりけるを、今取り出でて帝に奉る。君も臣も感嘆なのめならず。蘇武は君のため大功ならびなかりしかば、大国あまた給はつて、その上、典属国といふ司を下されけるとぞ聞こえし。
 李少卿は、胡国に留まつてつひに帰らず。いかにもして、漢朝へ帰らんとのみ歎きけれども、胡王許さねば力及ばず。漢王これをば夢にも知り給はず、李少卿は君のため不忠なる者なればとて、空しくなれる二親が屍を掘り起こして鞭たせらる。李少卿この由を伝へ聞いて、恨み深うぞなりにける。さりながらもなほ故郷を恋ひつつ、まつたく不忠なき由を、一巻の書に作つて、漢王へ参らせたりければ、「さては不憫の事ごさんなれ」とて、はかなくなれる父母が屍を掘り起こして鞭たせられたりける事をぞ、悔しみ給ひける。
 漢家の蘇武は、書を雁の翅に付けて旧里へ送り、本朝の康頼は、波の便りに歌を故郷へ伝ふ。かれは一筆のすさみ、これは二首の歌、かれは上代、これは末代、胡国鬼界が島、境を隔てて、世々はかはれども、風情は同じ風情、有り難かりし事どもなり。

        了

 

 


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